桜峠春鬼奇譚 (はなとうげ はるのおにばなし)
(お侍 習作163)

         お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 


       




 北の辺境…に入る手前。そこから先へと北上すれば、冬の間 閉ざされよう地域に当たる、小さな小さな山野辺の里を目指す街道の途中には、丘越え程度の標高とはいえそれでも人々から“峠”と呼ばれているところがあって。さしたる難所でもないながら、大昔には藩と藩の境目だったとかいう言われもあってのささやかな峠、今の世では そこに結構な大きさの桜があることで有名でもあり。少し遠回りになるが、その分 ゆるやかで平坦な道が他にあるにもかかわらず。この時期だけは…年寄りや女子供連れの一行でさえ こっちの道を選ぶのも、その桜の大樹がそれは見事な威容を見せて咲き誇る姿、一目でも堪能したいがためだという。桃源郷への入り口までを誘
(いざな)うような、緋白の花の並木が錦帯のように連なっているという訳でもなけりゃ、周辺にも同じ仲間があってのこと、奥行きある“花の苑”と化すでなし。樹齢のありそな大木が一本だけそそり立つ、いわゆる“一本桜”という手合い。人里からもやや離れたところへぽつりと立っている存在であり、世話をする人もなければ、それを神木だ何だと崇める社もない、極めて放ったらかしな存在なのだけれど。


  ただ、その咲きようの見事さは正しく圧巻で。


 まずは見上げるほどもの大きさが人々の意識を搦め捕る。あまりに近づき過ぎると、その梢を見上げただけで仰のけに引っ繰り返りそうになるほどもの尺、普通一般の二階家でも勝てぬのではないかというほどに背が高く、それを余裕で支えているだけの胴回りもあろうという巨大な古桜で。誰が手入れをするというでもないながら、絶妙な枝振りをしているその一つ一つへ、濃密なまでのたわわについた花々は、後背に広がる青空にいや映えての、周辺の空気さえ淡緋色に染めてしまうほど。特に奇抜な品種でもないため、一つ一つの花は他の桜と同じで小さなそれだが、ところどこに手鞠を実らすほどもみっちりと、梢の先からのずっとをまとう枝々は、花に埋もれてようよう見えぬようにもなるほどであり。花びらにのっている白には得も言われぬ深みがあって、それが重なって出来る花闇の、厚みのある肌目の瑞々しさは、観る人の視線を向こうからぐいぐいと吸い取るような“迫”の気配をさえ帯びており。何か変わったことが起きる訳じゃあない、今の時期だと花吹雪が舞うでもない。ただそこにあるというだけの大樹だというに、その寡黙で静かな佇まいと、だのに荘厳なまでの存在感とが、観る人の心までもを鷲掴みにして離さない。その昔、それは麗しい天女が舞い降りて来て、純朴な人々へ永劫の幸いを約した証しにと、此処へその姿を模した化身を残されたのがこの桜だという伝説さえ残っており、その周縁の里や村の人々や旅人たちからも、春の祝福をあらわす象徴として、長く深く愛されていたのだが…この春は何だか様子が違う。麗しくも凛と清冽な姿へは到底ふさわしくない、いっそ不名誉な種類の不吉な噂が、誰が言うともなくの広まっており。曰く、


  ―― 峠の桜に鬼が棲みついた





     ◇◇



 峠向こうの小さな寒村から、南麓のもう少し大きな村を目指して。恐らくはその春の一番最初にそこを北から降りて来た者となった気のいい男は、だが、その桜の根方に見るも無残な亡骸を見つけ、腰を抜かさんばかりに驚いた。恐ろしくてたまらなかったがそれでもと、お顔を改めると…やはり。この春はなかなか現れぬと皆で案じていた、毎年の訪問者だった薬の担ぎ売りのおじさんであり。確かこの数年ほどは、後を継がすか息子さんと親子でやって来てはなかったかと、それを思い出させたのが…這う這うの体で里までを駆け戻った彼へと訊いた長老の一言で。そんな恐ろしい所へわざわざ向かうのは気が引けたが、さりとて野にそのまま放っておくのも忍びない。置き薬の箱に一応の知らせ先が記されてあったから、そちらへの知らせの文を書いてからではあるけれど。縁がなかった訳じゃなし、何ならウチの里で弔ってやろうということで話まとまり。その亡骸を戸板に乗せて里の寺まで運び、そのまま若い衆らが近辺を探したところ、少し道から逸れた先の崖の下、沢の浅瀬に誰かが倒れているのが見下ろせる。あまりに遠いがそれでも、年格好や周辺に散らばる荷物と紙片のようなものから、それが担ぎ売りの息子のほうだろうと知れ。追いはぎにでもやられたか、だがだが、こんな辺鄙な土地にそんなものが目をつけるだろか。何より、だとすればこっちか麓かどちらかの里へも、恐ろしい悪さの陰が及ぶもの。冬が明けたばかりの土地だけに、生きてくために要る何やかや、そこいらに落ちてるもので間に合うとも思えないからで。そんなところへ気づいた顔触れが、誰ともなく言い始めたのが、


  ―― 峠の桜に鬼が憑いたんじゃあなかろうか


 何を馬鹿なことを…と、最初のうちは大おとならが揃って取り合わなんだが、

 『だってそうとしか思えないじゃないか。』

 湯潅を使わせた折、亡骸をあらためた和尚が言うには、人に殺されたような跡がないとか。だから、人ならぬ者が殺
(あや)めたんじゃないかって。それは…息絶えてからの日数が経っておっただけのこと。猛禽か獣かがつつき回した跡もあったで、はっきりどうやって殺されたんかが定められんと、そうと言いなすっただけじゃろが。だがだが、長老も言うてたぞ? そんな惨いことをするよな輩、ホントにこんな辺鄙なところへ来ておるならば、こっちか麓かどちらかの里へも 金品か食いもん狙って運んでいるはずと。麓の里へ、タンバ屋さんまでの文を頼みに行った連中が言うには、向こうへも何て怪しい人は来とらんて。

 『それどころか、茶店の女将の行方が知れんというやないか。』

 そちらも例年のこと、雪解けどきを見計らい、峠の桜を目当ての旅人が増えるのでと、途中の道にある茶店をこの時期だけまかなう女将さんが、その準備にと今年もやはり訪れていたという。何日か前にここを発ってったが、そっちの里へも挨拶に行っちゃあないかと逆に訊かれて、里の者らが青ざめたのは言うまでもなくて。
『手伝いの娘さん二人との三人連れ。
 それが陰もなくの行方が知れんまんまやて。』
 そちらは亡骸が見つからぬとはいえ、水商売の出か、小股の切れ上がったなかなか別嬪の年増だった女将と、妙齢の娘の二人という顔触れだと来れば、
『可哀想やが、女衒
(ぜげん)にでも攫われたんやなかろうか。』
 そうと思うところだろうに、

 『いいや。そっちもきっと、桜の鬼に攫われたんや。』

 それは美しい姿に化けての魂を奪うて、前後不覚となったところを担ぎ上げ、そのまま自分らの国へ攫って行ったのだと。実
(まこと)しやかに囁き合う者らが日を追うごとに増え始め。辺鄙な土地だが、だからこそ穏やかに静かな里だったはずが、とんだ騒ぎでもって迎えることとなってしまった この春だった。



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